幽霊船に乗って

お化けは死なない

我慢が効かない

前記事の「メッセージの選別」に書いたことや、自分の意識と無意識に気を配る訓練を色々と試していった結果、局所的だが「内的動機づけによるやる気」というのが戻って来た。正直、もう戻らないのではないかと思っていたので、とても嬉しいことであった。

 

だから調子が良かったのだが、油断してある仕事を引き受けたところ見事に撃沈してしまったので自戒をこめて書き残そうと思う。

 

(本当は内的動機が戻ってくるまでの経過に書きたいことが多いのだが、言いたいことが多すぎてまとまらない。次の機会に。)

 

何だかんだで、今の調子なら余裕だと思った。仕事は単発で、内容自体は大して苦も無く勝手知ったるもの。早く終わらせて他のことをするつもりだった。それなのに、重りを引きずっているようになかなか進行しない。終いには感情があふれ出て久しぶりに吐くように泣いた。自分でも驚いた。今までにより酷い状況を乗り越えたこともあったはず。これ位のことで取り乱すことはもう無いと思っていたのに。ショックだった。

 

理由は色々考えたけれども、究極的に思い当たるのは一つ。

戻ってきた内的衝動が強力に駄々をこねているのだ。

 

そもそもの内的動機が麻痺しきって無いも同然の時は外的動機が変にありがたく尽力できていたのだが、もうこれでは上手くいかない。今は、他にやりたいことがあるのにそれを我慢しているという状態にとても弱くなってしまった。

 

どうしたら良いのだろうか。

 

「仕事が終わるまで待ってね」が効かないのだから、せめて、やるべきこととやりたいことを平行して進めることを意識した方が良いのかもしれない。短時間ごとに双方を往復するのは良い考えかもしれない。「やるべきことを終えるまでやりたいことはお預け」という強迫観念の払拭も必要だ。可能ならやるべきことを放棄する選択もある。

 

我儘だろうか。

 

内的動機だの何だのは屁理屈で、ただの我儘と思われるかもしれない。しかし我儘であれ何であれ、いなくなってたものが折角戻ってきたのだ。これらが無かった時の、鬱々として無気力な時期を知っている。次は失わないよう慎重に生きなくてはならない。

 

幸い今回の仕事自体は単発であり納期までに片付きそうな所までどうにか持ってきたので、問題になることはなさそうだ。だが外部から与えられた動機と責務に割り切って対応できるほどの余力がないということを痛い程思い知らされる出来事だった。

 

 

メッセージの選別

自尊心が極度に低かったとき、自分以外の全ての人の言うことが正しい気がして、振り回されるか、凹まされるかしていた。人だけではない。事象にも凹まされていた。

やさしさに包まれたなら」という有名な曲には、”目にうつる全てのものがメッセージ” という歌詞がでてくるが、私が陥ったのは、全部が全部のメッセージを真に受けてどれを聞いて良いか分からない混沌だった。全部正しい気がして全部両立したい。

今思えば、「声を出せ!」「静かにしろ!」と矛盾するアドバイスを両方聞こうとしてどうしようもなくなり、挙句の果ては全てに責められているような気がした。

 

下に矛盾する故事、諺などを載せてみたので味わってほしい。

 

「善は急げ」「急いてはことを仕損じる」
「大器晩成」「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人」
「立つ鳥跡を濁さず 」「後は野となれ山となれ 」
「鶏口牛後」「長い物には巻かれよ」
「虎穴にいらずんば虎児を得ず」「君主危うきに近寄らず」

 

馬鹿げているんだなあと笑ってもらえれば幸いだ。

 

矛盾する正論を聞き入れようとするとブレーキとアクセルを同時に踏んだ状態になるが、私の場合感覚的にはサイドブレーキをかけたまま走行しているような感じで、ついに何かが焼き切れた。多分、必要なのは闇雲な両立ではなくどれが今の自分宛のメッセージなのかの選別であった。

 

普通は、ある程度のことならいちいち考えるまでもなく無意識的に選別していると思われる。選ばなかった選択肢に関しては意識にのぼることもない。そういうシステムというかフィルターがあってバックグラウンドで機能している。私も昔はそうだった気がするが、ある時からそれが機能しなくなってしまった。

(機能しなくなった原因はまた別の機会に書くと思う)

 

バックグラウンドで機能しなくなってしまったので、代わりに意識で補う必要が出てきたように思う。少し前まではそれが機能していた頃に戻りたくて思い詰めるばかりだったのが、今は少しだけ意識でカバーすればいいのだと思えてきた。自動操縦が効かなくなったので、手動に切り替えるイメージに近い。

 

だがこの意識での選別の仕方を書き出そうとすると難しい。

多分人によって違うからだ。私には、どんなに正論であってもできそうにないことや、抵抗を感じることには「今の私には当てはまらない」「今受け入れるべき助言ではない」などのフレーズで意識的にお断りする訓練が良かったように思う。

「今」や「私」というキーワードは、狭まり過ぎた視野の中に多少まともな時間軸や他人との境界線を持ってきてくれるので良かった。

 

こういうことを頭の中でやっていく。

ぎこちないながらも、弱った無意識に任せっきりの時よりも打ちひしがれることは減ってきた。メッセージにはそもそも自分宛とそうじゃないものがあり「選択してもいい」と思えるようになったのも最近のことである。

はじめに

あまり楽しい内容にはならないかもしれない。

ネガティブを吐き出すことの方が多いかもしれない。

それでも書くのは苦しんでいた過去の自分の相談相手になってやりたいから。何より、現在の自分が落ち込んだときに読み返すと慰めになるような内容を意識して書くつもりだ。世の中には私より辛く、大変な局面に対峙してる人が大勢いて、その中で私は恵まれた人間のくだらない悩みを未熟なせいで深刻に悩んでいることをまず白状しておく。

それでもよければ、このブログが、読んでくれる人の苦悩を少しでも(読んでる間だけでも)軽いものにできれば幸い。